土佐煮っ記

備忘録。

不自由だから自由なんじゃない?

「なんでもいいよ」


こだわりがなくて、本当になんでもいいときでも、言われた側は困惑してしまう。かと言って、細かな点まで指定すると嫌な顔をされる。

不自由は解消したいが、自由になるとそれはそれで困る。


自由って何なんだ?




例えば、学生に将来の夢を聞いても、答えられないひとは多いだろう。なんにでもなれるからこそ、選択肢が多すぎて選べないのだ。そして、時間とともに選択肢は少しずつ減ってゆき、多くの人は半ば強制的に就活がスタートすることでやっと考え始める。


自由であるほどいいことのように思えるが、その分、多くの可能性について比較検討する必要がある。それは結構大変なことだ。


歴史を振り返れば不自由は減っている。日本では身分制度もほとんど残ってないし、上司に逆らっも切腹する必要もない。ただ、マナーみたいな絶対的ではないルールはむしろ増えていると感じる。


世の中は人々が望む方向に進んでいく。


自由になりたい欲と考えたくない欲の折衷案がこれなのだろう。


欲しいのは自由じゃなくて適度に多い選択肢。



自由な世界はむしろ不自由なんだ。
不自由の中で自由に生きたいんだ。

人間は面倒くさい。

義務教育に俳句を

クソリプや ああクソリプクソリプ


SNS上で猛威を振るうクソリプ
インフルエンサーの苦労は計り知れない。


誰でも自由に発言できるのはインターネットのメリットの1つであることは紛れもない事実ではあるが、クソリプの原因でもあるのもまた事実。

だからクソリプをゼロにするとこは不可能だと思うが、減らすことはできるだろう。

そこで、どうすればクソリプを減らせるか考えた。


voicy.jp


ちきりんさん曰く、SNSは拡大と制限という矛盾をはらんでいる。そして、ベストな制限方法は見つかっていないようだ。

世界中で普及しているにも関わらず、未だにそういった問題を解決できていないということからも、制限によりクソリプを減らすのは難しいだろう。


だとしたらクソリプをする人を減らす、つまり人々のリテラシーを高めることがクソリプを減らすため必要なんじゃないか?


クソリプになる要因でざっくり分けると
・行間が読めていない
・文章構造が理解できていない
・罵倒・悪口
などがあると思う。

罵倒や悪口など明らかに攻撃を意図した発言は、通報なり罰則なりの規制で対処するしかないが、上2つの要因によるクソリプは十分な読解力さえあればなくせるだろう。


しかし、SNS、特に文字数に制限があり、文脈が切り取られやすいTwitterに求められる読解力はかなり高い。

読書量を増やすぐらいでは解決できないと思う。
小説などストーリーがあるものは、わからない部分があってもても、読み進めていくにつれなんとなく理解できてしまうから、読解力が身についているのか把握しづらいからだ。


じゃあどうすればTwitterに必要なレベルの読解力を身につけられるか?
そこで思いついたのが『俳句』だ。


俳句はその句を理解しようとする気持ちがなければ理解できないし、作者が言いたいことが全て書かれているわけでもない。しかし、十分な読解力があれば、作者が描いた情景をありありと想像することができる構成になっている。
だから、俳句に触れることで、Twitterに求められる高い読解力を身につけられると思う。


また、ツイートする側にとっても、誤解されにくい文章を書くことはクソリプを減らすことに繋がる。

140字の制限の中でどの言葉を選び、何を表現するか。そのために敢えて書かないこともある。それはまさに俳句を詠むことに似ている。


有名人が俳句を詠み、それを査定するバラエティがある。あの番組を見ていると、先生が

・不必要な説明に言葉を無駄遣いしない
・17字しかないから1語も無駄にしない
・助詞一つで意味が変わる
・語順で印象が変わる

といったことを繰り返し伝えている。

17字で伝えたいことを表現することは簡単ではないが、言葉について悩み、考えることは読解力を身につける一助になると思う。


日本の伝統文化なら文科省も嫌な顔しなさそうだし、義務教育に組み込んでしまえば、高い読解力を身につけた人が増え、クソリプを減らすことができるんじゃないだろうか。




「月1ぐらいで俳句を詠んで 才能なし と判断されればその月はコメントできないSNS」とか面白いかも。

(その対策用の俳句自動生成アプリも出てきたり…)


入試問題に
「以下のリプライの内、クソリプはどれか?」
っていう問題が出題される日も近いかも。

アイドルから考える宗教観

Twitterを眺めているとこんなツイートが流れてきた。

なぜ韓国のアイドルはダンスや歌のレベルが高いのかと考えたとき、チームとしてより高みを目指すK-popのアイドルと、個人として総選挙で身内に勝つことを目指す日本のアイドルで差が出るのは当然のことだよね、というのを経営会議で話した。

この方はnoteで改めてまとめられており、価値観や文化、市場環境など様々な要因があるだろうし、そもそも本当に韓国のアイドルの方が歌やダンスのレベルが高いのかという議論もあるよね、とおっしゃっています。

もちろん、日本のアイドルを貶しているわけでも、歌やダンスのレベル=アイドルのレベルと考えているわけでもでもなく、日本のアイドルも韓国のアイドルも両方素晴らしいよ!と思ってらっしゃると思う。


私も自粛期間中にNizi Projectにハマり、日本と韓国のアイドルの違いは感じていたので、それについて自分でも考えてみた。




まず、グループが結成される時点について考えてみた。


日本でも韓国でも、最初にプロデューサーがどんなグループを目指すかという方針を決めると思う。

しかし、日本ではその方針、つまり目指すグループ像はあくまで大雑把な方向性のようなもので、その方向に成長するポテンシャルを秘めた人物かどうかが選抜の基準になっているのではないか?


つまり、人物 を重視している。


選抜時点で見ているのはポテンシャルであり、未知数な部分が多いため、グループの活動を通してメンバーが成長すると、最初に設定されたグループ像とはズレが生じることがある。

その結果、ソロになったり、女優になったり、実業家になったりと別の道に進む人も出てくるのではないだろうか。



一方、韓国の場合、最初に設定される目指すグループ像が具体的で確固としたものなのではないか?

そして、それを表現するために必要な能力を持った人物が選抜されるのではないだろうか?


つまり、 能力 を重視している。


どんなに素晴らしい能力を持っていたとしても、それが目指すグループ像を表現するのに適さない場合、メンバーには選ばれないのではないだろうか。


Nizi Projectでは『世界に通用するガールズグループ』を生み出すことが目的だったが、J.Y.Parkさんの中では『世界に通用するガールズグループ』の定義が明確にあったと思う。

だから、歌やダンス以外に人柄という精神的な部分も、『世界に通用するガールズグループ』に必要な能力の1つとして評価対象となっていたんだと思う。



そして、このような違いはアイドルとして求められているものが日本と韓国で違うから生まれるのだと思う。





私たちはアイドルに何を求めているのだろう?


アイドル = idol = 偶像

【偶像】
1. 木・石・土・金属などで作った像。
2. 神仏をかたどった、信仰の対象となる像。
3. あこがれや崇拝の対象となるもの。「若者の偶像」
デジタル大辞泉より

つまり、アイドルを応援することは偶像崇拝なのでは?

日本では古来からあらゆるものに神が宿るという考えがある。そのため、形の無い能力ではなく、形ある個々の人物が重視されるのではないだろうか?

宗教の割合を調べると、日本では仏教、韓国ではキリスト教が多数派となっており(無宗教を除く)、キリスト教イスラム教、ユダヤ教では偶像崇拝が禁忌となっているようだ。


日本の宗教 - Wikipedia
大韓民国の宗教 - Wikipedia
偶像崇拝とは - コトバンク


これらの宗教では神を目に見える形にすることを禁じているため、アイドルそのものというより、アイドルが作る世界観のようなものに惹かれる傾向があるのではないか?
そういう文化的背景のある市場だからこそ、プロデューサーは能力を重視するのではないだろうか?

(韓国にも仏教徒はそれなりに多いが、調べてみると、そもそも仏陀偶像崇拝を認めていないらしい。あらゆるものに神が宿るという考えは、日本固有の「神道」という宗教に由来するものであり、仏教の考え方ではないようだ。)

(仏像は偶像崇拝ではないのか問題には人によって解釈が色々ありそうなのでまたいつか。)



無宗教が多いと言われる日本人にも、無意識のうちに宗教的な考えが根付いていると考えるとおもしろい。

夜具の上

「夜具の上」

ひっつめ髪を
ほどいたら
泣くかもよ

詩集 『屑鉄と古布』より


ひっつめ髪=髪の毛を後ろできつく束ねた髪型


理不尽なことばかりでも、弱みは見せない

ナメられちゃうからね

髪と一緒に顔を皮膚も吊り上げる

涙が出ても溢れないように




夜具の上で、わたしの髪をほどいてくれるあなた

あなたなら弱ったわたしを受け止めてくれるでしょ?

「泣くかもよ」とジャブを打ちつつ

「泣いてもいいよ」と返してくれると確信しているわたし

あなたがいるからわたしは頑張れる



たった3行でもそんな情景が浮かぶ

居心地のいい場所の見極め方

以前、人は縄張りタイプと群れタイプに分類できるのではないかと考えた。
しかし、その考えとは矛盾する新たな疑問が浮かんだ。


私は縄張りタイプだが、自分のプライベート踏み込まれることにあまり抵抗がない。
これはむしろ群れタイプの傾向ではないのかと。


自己開示度から考えた縄張り/群れ

休日は何をしているか?
好きなタイプは?
彼氏/彼女とはうまくいってるの?

プライベートについてあれこれ聞かれるのが嫌な人は多いと思う。
あまり親しくない人に聞かれたら尚更だろう。


縄張り/群れ理論で言えば、縄張りタイプの場合、家族や親友など100%味方と判断できる人以外にプライベートを晒すことは、動物で言えば弱点を晒すことに等しく、生存戦略上不利だと言える。

一方群れタイプの場合、弱点を晒すことで『あなたを味方だと思っている』と暗に伝えることになるため、信頼関係を構築するきっかけになると考えられる。また、弱点を互いに補い合うこともできるため、生存戦略上有利だと言える。


ではなぜ、縄張りタイプだと言える私が、群れタイプと言える性質を持っているのか?



育った環境のせい?

まず思い浮かんだのは、生まれ育った環境の影響である。

私の実家は限界集落と言っても過言でないほど田舎にあり、高校卒業まで18年間その家で過ごした。


田舎にはプライベートが無い。

どのレベルの田舎を想像するかで、程度は変わるだろうが、集落レベルではもはやみんな親戚と言ってもいいレベルである。

いつ、どこで、何をしていたか
どこへ進学、就職したか
結婚したか、子供はいるか

こういった情報は、自分が喋らなくてもみんなにそれとなく伝わっているものだ。

そんな環境の影響なのか?


しかし、これだと田舎出身の人はみな群れタイプの傾向があるということになってしまう。

田舎の閉塞的な環境が嫌で都会へ出る人も多いことからも、根本的な要因ではないと考えられる。


そもそも縄張りタイプと群れタイプに分類できるというのが無理があったのか?



精神的/身体的の軸を加えることで解決!

縄張り/群れの2択ではなく、それに精神的/身体的という軸を加えた4択にすることでうまく分類できるのでないだろうか?

つまり、

①精神的にも身体的にも縄張りタイプ

②精神的に縄張り、身体的には群れタイプ

③精神的に群れ、身体的には縄張りタイプ

④精神的にも身体的にも群れタイプ

の4タイプに分類でき、この中で私は『③精神的に群れ、身体的には縄張りタイプ』に分類されるのではないか?

だから、プライベートが無いような田舎の環境は平気で、人の多い都会ではストレスを感じやすいのだろう。


また、それぞれのタイプにとって

①精神的にも身体的にも縄張りタイプ
→とかいなか(地方都市、大都市の近郊)

②精神的に縄張り、身体的には群れタイプ
→東京、大阪の中心部

③精神的に群れ、身体的には縄張りタイプ
→地方の田舎

④精神的にも身体的にも群れタイプ
→東京、大阪の下町エリア

が居心地のいい場所になる可能性が高いと思う。



コロナで地方移住が注目されているが、自分のタイプを自覚してないと後悔しそうだ。

また、たまに繰り広げられる都会 vs 田舎論争は、①〜④の分類間で言い争ってるだけで、タイプの違いを理解していれば議論にすらならないんじゃないか?

縄張りタイプの傾向と反省

群れと縄張りの違いを考えて思ったことがある。


縄張り戦略とは種全体の利益ではなく、個の利益を優先した戦略っぽいなと。


個々が自分の利益を求めることが、種の存続につながる。つまり、縄張り戦略型の人間は、自己責任論者的な傾向が強いのではないか?

もちろん、私を含めて。



全て自分でやろうとするあまり、自分の首を絞めてしまう。警戒を怠れず、食事にありつけない縄張り戦略を採る動物と、他人にも自分にも厳しい自己責任論者には重なる部分が多いと思う。
(言うまでもなく、他人に厳しく、自分に甘い自己責任論者はクズ)



貧困や学歴に関するニュースでは、自己責任で片付けるコメントが多い。

私はそれらを見る度に

『世の中にはどうにもならない事があると知らないのか?』

と心の中で批判していたが、それこそ他人を見下し、自分に酔っていただけだったのではないか?



自己責任論者的な傾向があると自覚し、気を付けていたつもりだが、自分が思っていたほどうまく対応できてなかったようだ。

気持ち悪さはどこから来るか?

私は電車の中のような、人口密度が高く、人の動きが少ない環境にいるとき、周りの人のことが気になってしまう。


ある日、その中でも、ハゲている人はよく目に止まることに気づいた。そして同時に、気持ち悪いという感情が込み上げてくるのことにも。


もちろん、単なる顔立ちの良し悪しの問題ではない。



1.確率の問題?

単なる確率の問題なのかもしれない。
通勤ラッシュの電車に乗っているのは、サラリーマンが多い。日々ストレスと戦っているサラリーマンにハゲが多くても不思議ではない。

ただ、気持ち悪さを感じる理由が説明できない。


2.単純に嫌い?

単純に。
これまでハゲた人から直接的な被害を受けたことはないが、思春期の女の子が父親を嫌うように、生理的に受け付けないというだけかもしれない。怖いもの見たさでつい目に止まってしまうのか。


しかし、ここで矛盾が生じる。私の上司もハゲているのだ。しかし、気持ち悪いと思ったことはない。もちろん、お坊さんに対しても同様だ。


つまり、ハゲに対して直接的に気持ち悪さを感じているわけではないようだ。


3.逆に、好き?

好きすぎてどうしても気になってしまい、つい見てしまう。
これは違う。


4.原因はハゲ以外?

別の要因により、悪目立ちしてしまっているから目に止まるのではないか?

ハゲている人が目に止まりやすい、

つまり、ハゲていることと相関がある何かによって。



「ハゲそのものではなく、ハゲに関連する何か」



それを見つけるために、ハゲを画像検索した。

そして、気持ち悪いと感じるハゲにある共通点を見つけた!



「髪が残っている部分がフサフサ or 長い」



のである。



ではなぜ、そのような人に対して気持ち悪さを感じてしまうのか?

短髪のハゲやスキンヘッド、坊主頭には何も感じないのか?



私の答えとしては「違和感」によるところが大きいと思う。

もし自分がハゲたら、植毛やウィッグで目立たないようにする。
もしくはスキンヘッド。
だから、そうしない人(=フサフサのハゲ)に違和感を感じるのではないか?



相手の行動に違和感を感じるとは、その行動原理が理解できないと言い換えていいと思う。


自然界においては、その行動原理が理解できない相手とは即ち

「敵」

だから

目に止まり(→索敵)

気持ち悪いと感じる(→退避)

のではないだろうか?


www.nli-research.co.jp


この記事によると、私は縄張り戦略を採用している人間のようだ。

しかし、縄張り戦略も、うまくいかないことがある。資源に対して、個体の数が多過ぎると、縄張りを作れない個体が出てくる。すると、そうした個体が縄張りを侵すことを防ぐ為に、縄張りの主は、警戒を怠れなくなってしまう。

私の場合、就職して電車通勤を始め、人口密度が高い環境に身を置くようになったことで、警戒を怠れなくなり、結果、ハゲが目に止まりやすくなったということだろう。